Mangiarotti展2019.09@イタリア文化会館パネルディスカッションにて

 

 

 私は1978年にヴェネツィア建築大学に短期留学をしました。その1年前にカルロ・スカルパが仙台で亡くなっていますが、当時のヴェネツィア建築大学は、スカルパの学長時代に重視された「実践」から「理論」を重視する、つまり「手より頭重視」の一大転換期でした。短期留学を終了した私は、各地を旅行した後、自分のポートフォリオを携えてミラノのマンジャロッティ事務所を訪ねました。マンジャロッティ事務所は1960年来、11年前に亡くなった法政大学名誉教授の河原一郎にはじまり、今日のモデレーターを務める堀川絹江さんまで、20人以上の日本人建築家とデザイナーが継続的に在籍していました。私が訪ねたときは、幸運にも日本人が誰もいない時で、すぐに在席を許可してくれました。

 マンジャロッティの日常は、だれよりも早くスタジオにきて、黙々とスケッチをするのが彼の一日の始まりでした。それは彼が91歳で亡くなる2年前まで変わることはありませんでした。そのスケッチの一部がこの展覧会で展示されていますが、着想を的確に表現できる比類まれなスケッチ力の持ち主でした。民芸運動の一人に河合寛次郎という陶芸家兼彫刻家がいますが、彼の言葉に「手考足思」というのがあります。マンジャロッティこそはまさに手で考える人でした。

 彼の部屋にはヴァルター・グロピウスの大きな写真が掲げられていましたから、彼が最も尊敬する建築家はバウハウスの創始者ヴァルター・グロピウスであったようです。彼の事務所に入って最初に驚かされたできごとは、当時進行中の収納家具のプロジェクトで、打合せ中の図面を覗くと、なんとその家具のためのちょう蝶番をデザインしていました。私たちが家具や建築のデザインに使用する蝶番を決める際は、複数のメーカーのカタログから最良と思われるものを選ぶだけで、蝶番そのものをデザインしようとは誰も考えません。この辺にもバウハウスの精神を垣間見ることができます。

 そしてもう一つ驚いたことは、一つのプロジェクトにサイズがバラバラの図面が混ざっていることでした。われわれ日本では一つのプロジェクトの図面はすべてがA1とかA2に統一するのが当たり前なのに、イタリアでは描かれる作図の大きさにあわせて用紙をカットします。この作法の違いは日本人の性格とイタリア人の性格をよく表しているように思います。私たち日本人は決められた枠に如何にうまく納めるかに腐心し、それが合理的と考えています。一方、イタリア人は作図そのものが大事であって用紙の大きさを揃えることはさほど重要ではなく、合理的でもないと考えます。でも今はCADを使っているので、もはや過去の話かもしれません。

 私が彼のスタジオに入って1年後の1980年にイタリアの建築・デザイン界を二分する大事件が勃発しました。その舞台はヴェネツィア・ビエンナーレ建築展でした。1980年の同展は、それまでのディレクターであったヴィットリオ・グレゴッティからパオロ・ポルトゲージに交代し、「ストラーダ・ノビッシマ(最新の通り)」をテーマにイタリアにおけるポスト・モダニズムの旗揚げの場になりました。その展示内容にかみついたのが前ディレクターのグレゴッティで、それに対するポルトゲージのより辛辣な反論が新聞に掲載されました。その論争はイタリアの建築界・デザイン界を二分し、モダニズムvsポストモダニズムの一大論争が展開されました。ポストモダニズム側の主張は、従来のモダニズムが主張する建物自体の機能により決定されるという機能主義的形態論に対し、建築のファッサードは、建築自体の機能とは独立したアーバン・テクスチャー(街並み)により決定されるべきであるとの主張でした。確かにヨーロッパの都市を見ているとその主張にも一理ありかと思えたりします。

  この論争のさなかに、私はマンジャロッティにどう思うか質問しました。「彼らは形態上の問題だけにとらわれているが、建築の評価はそれだけではない。建築に対するエティカの視点が欠けている」と答えました。エティカの日本語訳は倫理です。われわれは普通、倫理と聞くとモラルのことを思い浮かべます。すると、先の言葉の意味がよく分かりません。このことを理解する過程で、マンジャロッティの思想のベースにはギリシャ哲学があり、その主要な一つであるエティカの背景にはアリストテレスの「幸福主義」があります。「幸福主義」とは、幸福の追求こそが最高の善との考えです。そして、ギリシャ哲学の実践論の中に政治学と共にエティカ(倫理学)があります。それは「人々がより豊かな生活をするための知恵や方法を学び探求する学問」でした。それはまた、「その実践が人々の生活をより豊かなものにするか否かを常に問うこと」でした。つまり、マンジャロッティが言いたかったのは「モダニズムが実践したより豊かな生活に向けた幾多の試みを評価せず、形態的な問題のみを主張するポストモダニズムはエティカにおける貢献は何も無い」という批判でした。いづれにしてもこのモダニズム対ポストモダニズムの大論争は今からおよそ40年前のことでありますが、今日のパラダイム転換の起点になるできごとであり、とりわけ都市計画への影響は大きいものでした。

 次に彼の主張なかによく現れる「無名性」について考えてみたいと思います。一般的にわれわれ建築家が社会的ポジションを獲得する上で、「有名性」が最も有効な手段と考えられています。しかし、大半の建築家・デザイナーは無名性の中で自らの職能を果たしています。これはそういう人たちに向けたエールともとれます。つまり、「名声とかサインといった虚構にとらわれず、実質的に優れたものを創れ」というメッセージが込められているように思います。この無名性は、柳宗悦(ムネヨシ)の「民芸運動」と親和性がありますが、実際マンジャロッティは日本の民芸運動のこともよく知っており、その息子で、バウハウスで学んだデザイナーの柳宗理(ソウリ)とも親交がありました。

 マンジャロッティが講演会で良く披露するエピソードがあります。「私がヤマギワ電機のご夫妻に招待されて、自宅に伺った折、ヤマギワ夫人が居間の真ん中に置かれた大理石のテーブルを指さして、「これ素晴らしいでしょ!私がミラノで見つけたの」と言って、そのテーブルのデザイナーがマンジャロッティであることを知らずに自慢したのです。この話をマンジャロッティは何よりもの誇りにしていました。また、いつかこんなことも言っていました。「建築の歴史を学ぶことは重要です。でもそれは建築家の歴史ではない。」

 デザインに限らず、彼が終生取り組んだメインのテーマである「プレファブリケーション」についても、その「無名性」は本質的な特性であるといえます。(槇先生の指摘にもあるように)マンジャロッティは建築の現場における出来具合や質が、その仕事に携わる職人の技量に依存している、その不確実性と非近代性がどうも我慢ならなかったようです。私たちは「プレファブリケーション」と聞くと、災害後の仮設建築や本物の代替品といった悪い品質のイメージを持ってしまいますが、マンジャロッティがイメージしていた世界は、現場の手作業では叶わない質的にも美的にも優れた架構のイメージでした。その実例を会場に展示されている幾つかのシリーズで確認してください。

 日本は欧米に比べてこの分野で後れをとっています。それは現場の監理技術力や職人の技量が優れていたために現場作業の品質を維持できたからでした。ところが、今日直面している職人不足とそれに伴う技術力の劣化は、プレファブリケーションの採用を余儀なくしています。本展を見た若い建築家の皆さんが、マンジャロッティが実践を通じて育んだDNAをインストールして、プレファブリケーションの新たな課題に挑戦してくれることを願っています。

 

コラム

研究紀要 / 創刊号2012.03 早稲田大学イタリア研究所

イタリアのデザイン・建築・都市を取り巻く反モダニズムの系譜

モダニズムの起源

  ヨーロッパにおけるモダニズムの起源は、18世紀末から19世紀中葉にかけてイギリスに起こった産業革命とその生産システムを支える資本主義の台頭に端を発している。産業革命の進展は工場と人を都市に呼び込んだ。従来の都市はその変化に対応出来ず、都市環境は悪化し、エンゲルスが1845年に著した『イギリスにおける労働者階級の状態』(Fig.01)に見られるようなスラムが発生した。この都市の状態に嫌悪したエベネーザー・ハワード(1850-1928)は『田園都市』を考案し、そしてレッチワース、ウェルウィンで実践した。それは産業革命後の理想の都市を求めたもので、「ライト兄弟の飛行機に並ぶ大発明」(Lewis Mumford)と賞賛され、世界中に絶大の影響を及ぼした。『田園都市』はモダニズムの一都市形態であったと言えよう。

Fig.01

 イギリスに続いてフランスにおいても産業革命と資本主義が進展し、パリにも深刻な都市問題が発生した。亡命時代にイギリスに滞在経験のあるナポレオン3世は、ジョルジュ・オスマン(1809-1891)に来るべき時代の資本主義システムに適合すべくパリの大改造を委ねた。このようにモダニズムは資本主義的生産システムと共通のパラダイムの上で発展を遂げてきた。

未来派

 イギリスに始まりフランスを経由した産業革命と資本主義の波は“伝統との完全なる断絶”と“創造的破壊”を謳いながらイタリアにも波及した。フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(1876-1944)は1909年にフランスの新聞「Le Figaro」に『未来派宣言』を発表した。これはまさにイタリア人による最初のモダニズム宣言であった。

<未来派宣言>

1)われわれは、危険への愛と、活力と無謀の習性を謳いたい。

2)  勇気、大胆、反乱がわれわれの詩の本質的な要素となるだろう。

3)  文学は今日まで沈思黙考、恍惚感、眠りを賞揚してきた。われわれは攻撃的な運動、熱を帯びた不眠、かけ足、宙返り、びんた、げんこつを賞揚したい。

4)  世界の偉大さは、ある新しい美によって豊かになったとわれわれは断言しよう。それは速度の美である。爆風のような息を吐く蛇に似た太いパイプでかざられたボンネットのあるレーシングカー・・・・散弾の上を走っているように、うなりをあげる自動車は、《サモトラケのニケ》よりも美しい。

5)  われわれはハンドルを握る男を賛美したい。ハンドルの理想のシャフトは地球を貫通し、地球もまた、軌道というサーキットを疾走している。

6)  詩人は、情熱をもって、華麗に、また気前よく、力の限りをつくして資源的な要素の熱狂を増大させなくてはならない。

7)  闘争のなかにしか、もはや美はない。攻撃的な性格ををもたない作品に傑作はありえない。詩は、未知の力を人間の前に屈伏させるための、未知の力に対する荒々しい攻撃として把握されねばならない。

8)  われわれは幾世紀もの過去の崖っぷちに立っている!・・・もしわれわれが不可能な神秘の扉を突き破ろうとするなら、なぜ後ろをふりかえるのか?時間と空間はきのう死んだ。われわれはすでに、いたるところに存在する永遠の速度を創造したのだから、絶対のなかにもう生きているのだ。

9)  われわれは、世界の唯一の健康法である戦争、軍国主義、愛国主義、無政府主義者の破壊的な行動、命を犠牲にできる美しい理想、そして女性蔑視に栄光を与えたい。

10)  われわれは、美術館と図書館と各種アカデミーを破壊し、道徳主義と女性賛美主義と、すべての日和見的で功利的な卑屈さと戦いたい。

11)  われわれは、労働、娯楽、暴動に揺り動かされる大群衆を謳うだろう。近代的な大都市における革命の多彩で多音声的な潮流を謳うだろう。荒々しい電気の月によって煌煌と照らし出された造船所や兵器工場の、震えるような夜の熱気を謳うだろう。煙を吐き出す蛇を飲み込む大食いの駅、吐き出す煙のよじれた糸で雲から吊るされているように見える工場、日にさらされてナイフのように光る川をまたぐ巨人の体操選手に似た橋、水平線を察知しながら冒険をする汽船、パイプの手綱をつけられた鋼鉄の巨大な馬のように線路のうえで足踏みをする胸板の厚い機関車、旗のように風にひるがえるプロペラが熱狂した群集の喝采のように聞こえる飛行機の滑るような飛行を、われわれは謳うだろう。

 われわれは、防ぎようのない火事のように暴力的なこのわれわれの宣言を、イタリアから世界に向けて発信し、この宣言によって今日、「未来派」を創立するのであるが、それは、教授、考古学者、観光ガイド、骨董屋によるうす汚い腐敗からこの国を解放したいがためである。すでにあまりにも長きにわたって、イタリアは古物商の市場となってきた。われわれは、無数の墓場によってイタリア中を覆いつくす無数の美術館から、イタリアを解放したいのだ。

何とも過激な宣言文ではあるが、これが当時の先進的な時代気分であった。そして第一次世界大戦に突入していった。このグループの建築家の一人にコモ出身のアントニオ・サンテリアがおり、1914年に「未来派建築宣言」を出して、『チッタ・ヌオーヴァ(新都市)』と題した幾つかのドローイング(Fig.02-04)を発表した。それらは第一機械時代の美学を表現していた。彼はそのほとばしる才能を開花させるまえに、戦場で没した。

Fig.02

Fig.03

Fig.04

ノヴェチェント

1922年にミラノで生まれた芸術運動であるノヴェチェント(900年様式)は“秩序への回帰”を標榜した。イタリアンアールヌーヴォである“リーベルティ”でもなく、また未来派の前衛的実験でもなく、構成の調和、形態の純粋さ、古典的崇高さを目指した。それはモダニズムへの最初の異議申立てであった。そのグループの主要メンバーに画家マリオ・シローニ(Fig05)、ジョルジョ・デ・キリコ(Fig.06)、建築家ジョヴァンニ・ムーツィオ(Fig.07)、そしてジオ・ポンティがいた。

 

 

Fig.05 郊外

Fig.06 通りの神秘と憂愁

Fig.06 カ・ブルッタ

 グルッポセッテとM.I.A.R(イタリア合理主義建築運動)

グルッポセッテはミラノとコモを主とする北イタリアの建築家達、ルイジ・フィジーニ、ジーノ・ポッリーニ、ジョバンニ・フレッテ、セバスチャン・ラルコ、アダルベルト・リベラ、エンリコ・ラーバ、ジュゼッペ・テッラーニの7人で1926年に結成された。当時のヨーロッパで展開を始めた近代建築運動に同調する運動を展開し、1928年のローマで開催された第一回『合理主義建築展』を機にM.I.A.R(イタリア合理主義建築運動)へと拡大し、おおよそ50人の若い建築家たちが参加した。ジュゼッペ・テッラーニ(Fig.08)と後から加わったジュゼッペ・パガーノ(Fig.09)が中心となり、アダルベルト・リーベラ(Fig.10)が総書記長を担当した。当初、ファシスト政権はこの新様式を優遇したが、後にピアチェンティーニのモニュメンタルな新古典主義様式に取って代わられ、この運動は終結した。

Fig.08 ファシストの家

Fig.09 ローマ大学第一物理棟

Fig.10 ヴィラ・マラパルテ

ネオ・クラシズム

 ムッソリーニの御用建築家となったマルチェッロ・ピアチェンティーニはノヴェチェントとイタリア合理主義建築を折衷したと言われる新古典主義建築を推進し、数々の建築(Fig.11)を残した。さらに、ムッソリーニはファシスト政権20周年記念の祝祭として1942年にローマ万国博覧会を企画し、ピアチェンティーニにその立案(Fig.12)を委ねた。諸施設の計画には設計競技が実施され、その中に四角のコロッセオと俗称されるイタリア文明館(Fig.13)やアダルベルト・リーベラの設計による会議場(Fig.14)等があった。ところが計画なかばに第2次世界大戦が勃発し、万国博は中止され、工事も中断された。終戦後、これらの施設の幾つかが再開され完工した。現EUR地区のそれらの建築を見ると、ファシズム政権が創造しようとした都市をイメージ想像することができる。

 

Fig.11 ローマ大学都市 

Fig.12 ローマ万国博'42の全体計画

Fig.13 イタリア文明館

 

Fig.14 会議場

戦後の状況

 戦後の建築・デザイン界はモダニズム建築(イタリア合理主義建築)の再評価と戦前のモニュメンタリズムの後遺症意からの脱却を課題とした。そして幾多の有能な建築家たちの創作活動が開花しイタリアにおける建築・デザイン界の黄金時代を迎える。建築家は建築の仕事のみならず、プロダクトデザインの分野においても主役を演じた。このことはイタリアンデザインの重要な特質として上げることができる。また、イタリアンデザインの隆盛への舞台作りおいて、ミラノのデパート(リナシェンテ)が1954年に創設したデザイン賞であるコンパッソ・ドーロ(黄金コンパス)賞の貢献を見落としてはならない。60年代・70年代はイタリア建築・デザイン界の黄金時代であり、幾多の巨匠を輩出した。彼等を列記すれば;フランコ・アルビーニ、ジオ・ポンティ、ピエール・ルイジ・ネルヴィ、B.B.P.R、カルロ・スカルパ、アンジェロ・マンジャロッティ、ガエ・アウレンティ、アキッレ・カスティリオーニ、ヴィーコ・マジストレッティ、ジャン・カルロ・デカルロ、ヴィットリオ・グレゴッティ等々。ここでは彼等の代表作をすべて紹介する余裕は無いが、なかんずくミラノにある2つの摩天楼を取り上げたい。一つはミラノ中央駅のそばに建つジオ・ポンティとピエール・ルイジ・ネルヴィ他の共作によるピレッリ・ビル(1956-61,Fig.15)。そしてもう一つはミラノ大聖堂のそばに聳えるB.B.P.R設計のトッレ・ヴェラスカ(1956-58,Fig.16)である。前者は当時の主流であったモダニズム建築(インターナショナルスタイル)の秀作である。後者は明らかにインターナショナルスタイルに対する異議を表明しており、その形態にはロンバルディア地方の建築言語を採用して地域固有の歴史と文化との連続性が表現されている。これはノヴェチェントの再生として捉えることもできる。そして、アルド・ロッシ(Fig.17)が登場してノヴェチェントがふたたび復活した。

Fig.15

fig,16

figi.17

  

ネオ・リアリズム建築                                      

さらに徹底したインターナショナルスタイルに対する異議申立てであるネオ・リアリズム建築運動がローマの建築家マリオ・リドルフィ(Fig.18)、ルドヴィコ・クワローニ達を中心に展開された。彼等ネオ・リアリスト達の主張は、建築の素材から採用される技術、さらに建築的構成や意匠に至るまで既存の歴史的環境に配慮することを求めた。

Fig.18

イタリアポストモダン  

1966年にアメリカの建築家ロバート・ヴェンチューリーが『建築の複合と対立』を著してモダニズム建築を批判し、1978年にはアメリカの建築評論家チャールズ・ジェンクスが『ポスト・モダニズムの建築言語』を発表して、世界中にポストモダニズム旋風を巻き起こした。そして1980年、ヴェネツィア建築ビエンナーレにおいてポストモダニズム建築の一大イベントが開催された。それはイタリアの建築・デザイン界を二分する大論争(Fig.19)を巻き起こした。とりわけヴェネツィア建築ビエンナーレの前ディレクターであったヴィットリオ・グレゴッティ(Fig.20-1)と新ディレクターのパオロ・ポルトゲージ(Fig.20-2)との日刊紙“La Repubblica”上での論争は激しいものであった。以下に二人の主張のあらましを記す;

Fig.19

Fig.20-1

Fig.20-2

 

<ヴィットリオ・グレゴッティ>

モダンムーヴメントからの分離の兆候を現す最初の出来事は、22年前に雑誌「カサ・ベラ」紙上で展開された一大論争である。その時の批判は、会場で見られるような形態的折衷主義とは違い、モダンムーヴメントの理論的基盤を、イデオロギーと歴史との関係、および美学的・思想的観点よりなされたもので、決して急進的思想やパロディとしてなされた物ではなかった。この建築展で見られるものは、柱にとりつかれた者たちによる、商業的で空虚な大饗宴である。この傾向は、ヨーロパを独善的にながめているアメリカの批評家達の文化的情況から生じたものである。ファッサードの形態的孤立は再びモダンムーヴメントの原点に引き戻すだけであり、モダンムーヴメントにより提出された問題、即ち建築家の職能の問題、生産過程における建築家の立場の問題、建築言語上の問題、そして今まで獲得された経験的成果の内にある問題等は、すべてないがしろにされている。

<パオロ・ポルトゲージ>

ファッサードの問題は、ヴェンチューリーが機能的組織体としての建築からファッサードの開放を提唱したように、固体としての建築において、そのファッサードだけを特別扱いするということではない。建築内部から来る要求とは違った都市空間から来る要求に応えるべきだということである。建築のすべての歴史においてファッサードは、顔が人間の体を方向づけるように、建築を方向づける顔である。この建築展ののファッサードの通りは、この意味を強調するための方策であり、建築固体の自己満足的要素として現れる現行の理論を否定し、都市の母体としての建築の範例集であり、論争の場への誘いを目している。ポストモダニズムへの批判は、彼の現状認識の欠如を顕わしている。もし、それが陳腐な日常の中にいる市民の大多数の趣味に対してなされるのであるならば、その批判はむしろ、普通の市民の要求や習慣や彼らの趣味に対して最小限の配慮もなく、唯受け入れ、我慢するものとして、新しい生き方を強制し、生産手段と似非文化の間に立ち、建築技術を行使するモダニストたちにこそ向けられるべきである。

 ***

アメリカ発のポストモダニズムは、「ハイブリッド」(混成的)で、「ラディカルな折衷主義」といった建築単体の造形手法重点が置かれていたが、ポルトゲージが主導したイタリアンポストモダニズムは、建築単体の課題から都市的スケールの課題へと拡張された。『Strada novissima(最新の通り)』に見られるとおり、建築のファサード(顔)は建築単体の機能から導かれる結果ではなく、アーバン・テキスチャー(都市的ファサードの織り成し)から導かれるべきであるとのメッセージを投げかけた。

デザイン界の反モダニズム

 同時期のミラノではエットレ・ソットサス(Fig.21)やアレッサンドロ・メンディーニ(Fig.22)、彼等に近いグループ:アルキミアを中心にラディカル・デザイン

の運動が展開され、新設ショウルーム『メンフィス』を舞台に世界中のデザイナーが参加してキッチュや通俗趣味を擁護したデザインが発表された。

 

Fig.21

Fig.22

 ヴェネツィアの建築家:カルロ・スカルパ

カルロ・スカルパはイタリアの巨匠建築家の中で特異な存在の建築家である。モダニズム建築が主流の中にあって、常に一定の距離間を保って独自の創作活動を続けた。モダニズムが要請する生産の効率化や職人技を排した産業化に彼は興味を示さず、造られたものの“質”にあくまでもこだわった。彼はヴェネツィアの伝統文化や職人技をベースにそれらを創造的に発展させた。彼は決してインターナショナルな建築家になることを望まなかったし、終生ヴェネツィアの文化を愛し、建築とデザインの創作(Fig.23-25)を通して地域文化の貢献にその一生を捧げた。

 

Fig.23

 

fig.24

 

Fig.25

モダニズムの巨匠達のヴェネツィアにおけるプロジェクト

ヴェネツィアには3人の国際的建築家のプロジェクトがある。ル・コルビュジエの病院計画(Fig.26)、フランク・ロイド・ライトのマジエーリ記念館の計画(Fig.27)そしてルイス・カーンのビエンナーレ会議場計画(Fig.28)。が、しかしどれも実現しないまま今日に至っている。これには諸般の事情がそれぞれに絡むものの、パラディオにおいてすらリアルト橋の計画案がそのローマ風古典主義ゆえに支持を得られなかったように、これらの計画もヴェネツィアの伝統文化がそれらの建設を許容しなかったと言えなくはない。

 

Fig.26

Fig.27

Fig.28

 ジャン・カルロ・デカルロのウルビーノのプロジェクト

モダニズムの都市計画は、コルビジュエの『輝ける都市』(垂直田園都市)に見られるように旧歴史街区を放棄し近郊に新都市を建設するとか、旧街区を創造的破壊の名の基にフェデラルブルトーザーを駆使した区画整理を一般的手法としている。一方、デカルロがウルビーノ大学の施設計画で採用した手法は、旧街区の街並みを壊すことなく、新しい建物を細心の注意を払って挿入(Fig.29)したり、古い建物の躯体を利用して改修(Fig.30)を施し、都市に新たの機能を付加して都市の活性化に貢献した。

 

Fig.29

Fig.30

ムラトーリとムラトーリ学派

サヴェリオ・ムラトーリは近代建築が既存の都市的有機体の性状に全く無神経であることに危機感を抱き、都市の現実を認識する手だてとして都市組織の解読方法をアカデミックな立場で提起し、ティポロジィア(建築類型学)を確立した。そして彼の下からジャンフランコ・カニッジャはじめ多くの同志が巣立った。

アテネ憲章VSヴェネツィア憲章

1933年の第4回CIAM(近代建築国際会議)でアテネ憲章が採択された。それはモダニズムムーヴメント波に乗り、コルビュジエ的な機能主義による明快な都市計画の推進が合意された。まさにインターナショナルスタイルの勝利宣言であった。そして、世界各地にインターナショナルスタイルの建築物が波及していった。およそ30年を経た1964年に、第2回歴史的記念物の建築家・技術者国際会議がヴェネツィアで開催され、ヴェネツィア憲章が採択された。それは、都市の中の歴史的建造物の保護の重要性を説くと共に、単に建造物のみが保護の対象ではなく、道や広場等で織り成される都市組織(tessuto urbano) 全体が保護の対象であること、またモニュメントの保存は現代の生活の要求に適合した機能による再生を目指すべきであることが合意された。

ボローニャ方式

ボローニャは他の都市に先駆けてコルビュジエ型の郊外再開発を丹下健三の設計で推進してきた街である。ところが、その過程で旧歴史街区が市民の生活の場から観光資本と観光客のみが跋扈する場へと変質してしまっていることに気づき、これまでの政策を改め、市民が主役のまちづくりに方向転換した。その中心になって政策を推進したのが若くして都市計画局長を務めたピエール・ルイジ・チェヴェッラーティであった。老朽化した古い建築群を庶民住宅として再生し、郊外に追い出された住民を歴史的街区に引き戻した。そして市民が都市の主役へ返り咲くことこそが保存・再生の最大の目標とした。ティポロジア(建築類型学)の分析をもとに、都市組織(Tessuto Urbano)を守りながら、市が用地買収し、街区単位を一つの事業として一気に再生を進めた。八百屋は八百屋のまま、肉屋は肉屋のままそこに住まわせ、その上の狭い家に住んでいた住人も動かさず、「タンスの中身を整理する」ように、中身を上手く納めた隙間に新しい入居者(低所得者・高齢者・ボローニャ大の学生)を充填した。これはモダニズム型の区画整理とは対極の手法として世界の注目と賞賛を集めた。

反建築(Contro L’Architettura)

エンディングに向けて話は飛ぶが、昨年東京九段のイタリア文化会館で反建築(Contro L’Architettura)の日本語版の出版を記念したシンポジウムがあり、著者であるフランコ・ラ・チェクラが来日公演をした。彼は、大阪国際空港を設計したイタリア建築家レンゾ・ピアノの事務所で所員として働いた経歴の持ち主でもあるが、その職能に疑念を抱き、建築家になることを断念した。そして、建築家、とりわけ国際的に活躍する一部のスター建築家を俎上に上げ批判を展開したのがこの本である。グローバリズムの波に乗り、「カジノ資本主義」の広告塔として、「自己エロティシズムの実践」を続けるスター建築家達。その地域の文化的状況に何の配慮も関心も示すことなく生産される建築物。「これほど土地に結びついた職業がサーカスの綱渡り曲芸師に変わってしまったと考えると嘔吐をもよおす」と著者は嘆く。

 結び

以上の通り、20世紀イタリアのデザイン・建築・都市を取り巻く状況を概観してみると、イタリアにはモダニズムに対する抵抗が延々と繰り返されてきたことがわかる。それは産業革命を経て資本主義経済が主導する現在においても、その社会システムの謳う価値観に懐疑的で、自分たちが歴史的に体得した確信(獲得されたユートピア)を決して捨て去らない強靭な意思を感じさせる。この市民意識がスロー・フード運動を生み、いち早く反原発の意思表示をさせるのでは無いだろうか。イタリアは産業革命が未成熟で大企業が育たなかったと言えるかもしれない。確かに家族経営的規模の企業が大半である。しかし小さくはあっても高品質で独創的な商品を産出する企業がたくさんある。供給型の需要から選択型の需要に移行した今日のユーザーのニーズに対応するには、少量多品種の生産システムが望まれている。この21世紀型の生産システムに最も適したシステムとしてボローニャを中心に広がる産業地域(第三のイタリア)に世界の経済学者が注目している。相変わらず国家的危機に瀕しているイタリアではあるが、国が如何に動揺しようがビクともしない強靭な地域主義と反グローバリズムの価値観を保持したイタリア諸都市の取り組みに、われわれ日本の進むべき指標として、熱い眼差しを注ぎ続けたい。

 濱口オサミ

 

 

SYMPOSIUM@Milano

L’Architettura fra due Culture.

二つの文化と建築

 

これより2つの文化における建築のあり方について述べさせて頂きます。ひとつは石とレンガを主要素材とする地中海建築文化です。それはわれわれ建築を学ぶ者の教育のベースになっているものです。もう一つは、極東の島国である日本の、木と土を主要素材とする建築文化です。前者はその素材の耐久性から、その存在の永遠性に期待が込められています。一方、木と土を主要素材とする日本の建築は、時間とともに朽ち果てる宿命を持っています。それでは日本の建築の原点と言える建物を見て頂きます。

Fig.1

 

これは紀元1~2世紀頃の遺跡から復元された集落の住まいと倉庫です。中央の住まいは右下に見える通り、木の骨組みの上に、葦やわらで屋根を葺き、壁はなく、土を掘り下げた土間をベースに木の床が一部に設けられていました。また、収穫した貴重な穀物は湿気を逃れるため、右上にあるような高床の建物に納められていました。 次のスライド[Fig.2]を見て頂きます。

Fig.2

これは1300年以上伝承されて、現存する、神の住まいである神宮の正殿です。世界最古の木造建築としての姿を今に伝えています。前述の穀物倉庫と同様に、高床式の木の架構の上に葦で屋根が葺かれ、柱は地面に直接埋め込まれています。次のスライド [Fig.3]をお願いします。

Fig.3

これは神宮の正殿を上空から見たものです。今から1324年前の690年に第一回の式年遷宮(神の住まいを移す)の儀式が行われました。以来、20年毎に式年遷宮が繰り返され、一時中断された時代もありましたが、来年2013年が第62回の式年遷宮の年にあたります。現在はスライドの通り、右側の敷地に築造されています。次のスライド[Fig.4]をお願いします。

Fig.4

このスライドは前回の式年遷宮、つまり1993年の第61回遷宮の直前の写真です。葦の屋根と柱の根元は20数年で老朽するため、20年毎に全く同一に新しく造り直すことでこの神の住まいの永遠性が確保されています。新しく造り直すのは、建築だけに限りません。すべての神への奉納品(工芸品)もすべて新しく造り直されます。また、この20年というスパンは、現在の職人たちが先人から引き継いだ技術のすべてを次の世代のに引き渡すのに適した年数であると言われています。つまり10代から20代で見習いとなり、30代から40代で棟梁になり、50代以降は後見役となります。20年に1度であれば、少なくとの2度は遷宮に携わることができ、2度の遷宮を経験すれば技術の伝承が可能と考えられています。

今までの話の中で、日本建築の主要素材として木は出てきましたが、土が出ていないので、その話をさせて頂きます。次のスライド[Fig.5]をお願いします。

Fig.5

これは、伝統的建築様式の一つ「数寄屋造り」の一例です。この壁は左下に見るような、柱の間に竹を割って麻紐等で組んだ下地に、右下に見える土と藁を捏ねたものを両面から塗りこんで、上の写真のような壁にします。現代でも田舎の一部の家作にはこの伝統工法が用いられています。この土壁は調湿効果もあり、すぐれて健康的な素材であるとともに、地震に対しても、有効な働きをします。つまり、この土壁が壊れることで、地震力を吸収する働きをします。壊れても、後で容易に修復する事ができるので、持続性にも優れています。この壊れることで地震力を吸収するという発想は、きわめて日本的といえます。

ここで主題を変えさせていただきます。次のスライド[Fig.6]に進んで下さい。

Fig.6

これは1855年に江戸(現在の東京)に発生した大地震の後に、巷で流布した『鯰絵』というものの1例です。当時、地震は大鯰が地下で暴れることで起こるという民間信仰がありした。この大地震の後に、風景画であり風刺画でもあったこのような鯰絵がたくさん描かれました。現在確認されているものでも250点を超えています。この絵に描かれているのは、地震のためにひどい目にあった庶民が大鯰を懲らしめている図で、とりわけ遊郭の遊女たちが怒り狂っています。

ところで、左上に職人の一団が描かれていますが、彼らは大鯰をいじめるのは待ってくれと叫んでいます。その理由を知るために次のスライド[Fig.7]を見て頂きます。

Fig.7

この絵では、地震のお陰で大いに儲かった材木商や大工や職人たちが右上の大鯰に感謝の弁を述べたてています。一方に地震に怒り狂う一団があれば、他方には地震に感謝する不謹慎な一団がいたのです。実際、この震災の後に世は好景気を迎えたと歴史に記されています。

舞台は変わりますが、1666年のロンドンに大火事“The Great Fire”が発生します。そして石とレンガの建築文化をベースに持つロンドンの市民は、以後のロンドンを不燃都市にしました。

一方、同時代の我が国では、1657年に首都江戸(現在の東京)で“明暦の大火”があり、壊滅的な被害にあっています。それでも木と土の民は不燃の都市を造りませんでした。この極東の島国には地震をはじめ、津波、大火事、台風など天災・人災が耐えることがありません。これらの歴史が、この地の人々に災害に対するある種の諦念を植えつけ、永続的な存在を信じないメンタリティを育んだように思えます。地中海建築文化の石とレンガの民は建築をストック(資産)として都市を築いてきたのに比べ、極東の木と土の民は建築をフロー(消費財)として都市をつくってきました。わが国では自動車メーカーが住宅を生産・販売しています。人の住まいと言えども、自動車や電気冷蔵庫と大差はないようです。また、わが国では木造の住宅の不動産価値は22年でゼロになり、RC造でも47年でゼロになります。われわれ日本の建築家はその恩恵にあずかっていることは疑いのないことで、前述の『鯰』に感謝している、あの不謹慎な一団とあまり変わりがないのかもしれません。建築をフロー(消費財)と見なしてきた民からメタボリズムという都市理論が生まれたのは偶然ではないでしょう。最後に、去年の3.11の地震とその後の復興計画について私見を述べて、私の講演を閉じたいと思います。

舞台は変わりますが、1666年のロンドンに大火事“The Great Fire”が発生します。そして石とレンガの建築文化をベースに持つロンドンの市民は、以後のロンドンを不燃都市にしました。

一方、同時代の我が国では、1657年に首都江戸(現在の東京)で“明暦の大火”があり、壊滅的な被害にあっています。

それでも木と土の民は不燃の都市を造りませんでした。

この極東の島国には地震をはじめ、津波、大火事、台風など天災・人災が耐えることがありません。これらの歴史が、この地の人々に災害に対するある種の諦念を植えつけ、永続的な存在を信じないメンタリティを育んだように思えます。

地中海建築文化の石とレンガの民は建築をストック(資産)として都市を築いてきたのに比べ、極東の木と土の民は建築をフロー(消費財)として都市をつくってきました。

わが国では自動車メーカーが住宅を生産・販売しています。人の住まいと言えども、自動車や電気冷蔵庫と大差はないようです。

また、わが国では木造の住宅の不動産価値は22年でゼロになり、RC造でも47年でゼロになります。

われわれ日本の建築家はその恩恵にあずかっていることは疑いのないことで、前述の『鯰』に感謝している、あの不謹慎な一団とあまり変わりがないのかもしれません。

建築をフロー(消費財)と見なしてきた民からメタボリズムという都市理論が生まれたのは偶然ではないでしょう。

最後に、去年の3.11の地震とその後の復興計画について私見を述べて、私の講演を閉じたいと思います。スライドを進めて下さい。

Fig.8

このスライド[Fig.8]は被災地のひとつ陸前高田の被災前と被災後の衛星写真です。次[Fig.9]をお願いします。これは別の被災地、気仙沼の同様の写真です。

Fig.9

これは別の被災地、気仙沼の同様の写真です。このように幾つもの街が一瞬の内に消滅しました。 引き続き6枚のスライド[Fig.10-15]で、被災後の様子をご覧ください。

Fig.10

Fig.11

Fig.12

Fig.13

Fig.14

Fig.15

この地域は1829年にも同規模の地震・津波に襲われていて5万人強が命を奪われています。その67年後の1896年にも同様の地震・津波で21,951人の死者を出しました。さらに、37年後の1933年にも3,064人の死者を出しています。このように数十年周期でこの地方は地震・津波に襲われてきました。被災直後には、住人たちの高台移転が進みますが、年月とともに被災の記憶は忘却され、きのこのように元の場所に街を蘇えらせてきました。あの3.11大惨事から早1年と9ヶ月が過ぎました。街が消滅した各被災地では、今回も街ぐるみの高台移転等の復興計画案が練られていますが、なかなかコンセンサスが得られず、住民は仮設住宅に住みながら、時間のみが成果なく経過していく状況に焦りの色を濃くしています。その復興計画の立案に建築家が深く関わっているかと言えば、一部の例外はあるものの、全体的にいって、NO!と言わねばなりません。そんな中、被災地の海岸を高さ20m程の防波堤を造る計画が国主導で進められていると、聞き及んでいます。私は、このおぞましく無味乾燥な構築物を造る計画は、是が非でも阻止しなければならないと考えています。百年に一度起こるともしれない自然の猛威に人力で抵抗しようとする発想を捨てるべきです。防波堤は今まで程度とし、今まで以上に景観に配慮すべきです。防波堤の内側には、命だけは保証する高さ数十メートルの防災タワーを数百メートル毎に建設するだけとし、人々は再び元の場所に木の街を創れば良いのだと考えています。建築においてさえ、わが国の耐震基準は、極めて稀に起こる(100年に1度程度)地震に対して倒壊しない(つまり命だけは助かる)ことの保証しかしていないのです。命さえあれば、人々は再び街を再興できます。歴史に習い、それを経済の起爆剤にすれば良いのです。

ただ今回の3.11の災害が未曾有に悲惨なのは原子力発電所の事故を伴っているからです。そのため、未だに、壊れてもいない自分の家にも街に戻れない人達が何万人もいます。この事故後、経済の問題よりも倫理(Etica)の問題が優先すべきであると、即座に原発ゼロを国の方針とした、イタリアとドイツに深く敬意を表するものです。

 ご清聴ありがとうございました。

建築家 濱口オサミ

 

 

 

 

 

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